東北関東大震災で亡くなった方には心から冥福をお祈りいたします。

地震の衝撃からまだ数日しか経っていないが、いくつか思うことがあったので書いてみたい。

震災で家が流されながら奇跡的に助かった人のインタビューに驚いた。地震から津波まで、30分以上家に留まっていたという。「なぜ逃げなかったのですか?」「まさかこんな大きな津波が来ると思わなかった」
意外な答に放送していたアナウンサーも驚きを隠せなかった。
緊急地震速報、そして津波警報が鳴り響いていたのに逃げなかったのか??
何のために、そういう準備をしてきたのか・・・

ニュースを見ていた多くの人は、地震から数分後に津波が来て間に合わなかったのだろうと想像していた。それならばわかる。ところが、30分もあったのに家から出なかったというのだ。その場に居合わせたら、「ばかやろー! 早く逃げろ!」と叫んでいただろう。

もちろん、すぐに避難したが、避難所ごと飲み込まれてしまった、避難場所までの距離が遠くて間に合わなかった、子供や年寄りを車に乗せていたら津波が来てしまった、そんな人もいたに違いない。しかし、どうやら、多くの人が避難する時間が十分にあったにも関わらず避難せずに津波に飲み込まれてしまったらしい。この前の地震でも津波は来なかったから、隣の家の人も家にいるから、そんな理由にもならない理由をベースに判断したことが命を失う結果を招いたのかもしれない。
警報直後に全員が避難行動をしたらどのくらい助かったのか、あるいは、それでも助からなかったのか、ならば、対策として何をしなければならないのか、そういう検証がこれから始まることと思う。

ある時期、アメリカに暫く滞在していたことがある。滞在中、何度か建物で火災警報が鳴ることがあった。私が驚いたのはそのときのアメリカ人の対応だ。とにかく、整然と、全員避難する。ほとんどの場合が誤報であり、皆誤報である可能性をよく知っているにもかかわらず、必ず避難する。私は、「たぶん誤報なのだから避難しなくてもいいのでは?」と聞いた。「本当である可能性もある。毎回避難すれば確実に助かる。階段を下りる労力を惜しむために命を懸けることはできない」という、極めて合理的な答を聞いた。私は当たり前の答と自分の認識の愚かさに衝撃を受けた。

日本ではどうかというと、学校で非常ベルが鳴っても、誰も避難しない。また誰かが間違って押したのだろうと見に行きもしない。小中高とそういう状況に慣れ親しんでいることが、警報への感度の低さという教育になってしまっている。

一方、危険性に過剰に反応する人もいた。「原発が爆発したから実家に帰ります。明日のレッスンはやりません」と言って仕事を放棄したヨガインストラクター、「他のヨガスタジオは今日は休みなので、私も休みたいです」と自分のレッスン5分前に連絡してきたヨガインストラクター。
いずれも、地震から3日後の月曜日の話だ。二人とも客観的で信頼できる事実を元に判断しているのではなく、他の人がそうだから、さっき余震があって何だか怖いからという極めて感情的なことが理由だ。そういう人は、逆に、極めて危険な状況でも、他のお店もオープンしているから、爆発してないから、と平然と危険に身をさらすのだろう。自分で考えないということは実に恐ろしい。安全なのにパニックになる、危険なのに避難しない、これは表裏一体のことで、どちらも正しい状況判断に基づいた行動ではないということでは同じことだ。

自分で考えるということは簡単ではないし、疲れることだ。一般の多くの人に冷静で、合理的な判断を求めるのは酷なことかもしれないが、自分で判断できない人は、信頼できる人、信頼できる情報を元に行動すればいい。

1000年に一度の地震だ。以前、1000年に一度の規模の地震のために防災対策を行うことはコスト的に無理だという話を聞いたことがある。すべての建物や道路を今回の震災に耐えうるものとして作ることは現在の日本の富では確かに不可能だ。それは原発施設にも言える。だから、ある意味、今回の事故や被害は受け入れざるを得ない結果だ。たまたま、1000年に一度、その場に居合わせてしまった悲劇、1000分の1の確率のはずれくじを引いてしまったようなものである。

起きてしまったことは仕方がない。今、我々ができることは何か、考えねばならない