このブログでも再三ピシット先生のタイマッサージの凄さについて言及している。
私がピシット先生のタイマッサージが凄いと思う理由は、ピシットスタイルの技術それだけを見て言っているのではない。ありがちなのは、師匠に心酔し、師匠が行うこと、言うことすべてが素晴らしいと思うパターンである。特にチェンマイの有名な先生のところで習っている人に多いのだが、一旦自分の先生に惚れ込んでしまうと、恋人に惚れるのと同様、あばたもえくぼ。欠点すらも美点に見えてしまうことになる。実は恋愛感情も洗脳の一種だと心理学的には認定されているのだが、師弟関係にもそれは起こる。最も悪しき前例はオーム真理教だろう。
ヨガもタイマッサージもある程度、マントラや精神性が語られてしまうので、グルになりうる人物と取り巻きがいれば新参者はあっという間に取り込まれ、洗脳状態に陥りかねない。特に、隔離された田舎のスクールではそれは大いにありうる事なので注意が必要である。
話が脱線したが、私は当初、ピシット先生をそれほど凄いと思っていなかった。ピシット先生以前にワットポーやチェンマイでタイマッサージを習得していたから、ピシットスタイルも単なるバリエーションの一つ、先生によって独自のことをやりたがるだけだと思っていた。実際、チェンマイでピシェット先生(ピシット先生とは別人、欧米人にフォークマッサージの神と崇められている人物)に会ったときは、自分の体に楽な方法、脱力の奥深さに魅了され、入信、いや、入門する寸前であった。
しかし、ピシェット先生のビデオ、そして他の先生のビデオをピシット先生に見せる度に返ってくる的確すぎる指摘・・・。
「そこには神経があるのでその押し方では腕の麻痺を引き起こす可能性があり危険だ」
「腕をそう使うと、年寄りや骨が弱い人の場合、肋骨を傷つける可能性がある」
「その姿勢では圧が強く入りすぎて気持ちよくない」
「それでもいいが、この方法の方が効率が高い」
「そのやり方は、怠けているように見えるので失礼だ」
私はタイで、素晴らしいと言われている多くの先生に会ってきた。そして、その技術をビデオに撮影し、解剖学的な解釈を行いながらピシット先生に意見を聞いてきた。
その度に、ピシット先生の口から信じられない程奥深く、意味のある返答が返ってくる。逆に他の先生にピシット先生のやり方を見せても、「そのやり方は疲れるのでは」「それでは自分の向きがおかしい」等々、手技の本質を捉えていない、自分が楽をすることだけをテーマにした答えしか返ってこないことが多い。
そういう、冷徹な比較、多角的な意見を経て、ピシット先生が行っている手技は凄いという結論に到達したわけだ。
そう、この先生は、私がチェンマイで喜んで習っていたような他のやり方を知らなかったわけではない。知らないどころか、チェンマイでやっている先生以上にその手技の意味、そして欠点を知り尽くしている。そういう膨大な手技から、安全で効果の高いものを選りすぐっていたのだ。
では、なぜピシット先生は、それほどの審美眼、選球眼を持っているのか。どこからその知識は来ているのか?
実は、ピシット先生も、天才とか神とかそういう人ではない。極めて勉強熱心で、そして謙虚なオープンな性格がそれを可能にしている。そしてその、性格があったからこそ、タイ厚生省から絶大な信頼を置かれ、タイマッサージ国家資格化に向けた中心人物に選ばれているのだ。
で、どこからその知識は来たのか?
それは、ピシット先生の活動にある。大学教授、医者、王宮の指圧師、田舎のマッサージマスター、多くの人と議論し、手技を検証し、標準化を行ってきたのがピシット先生だ。タイマッサージ復興プロジェクト、そして国家資格化の流れで、ピシット先生は、多くの人とタイマッサージのあり方を議論してきた。それは今でも行われている。だから、技術の深みが違うのだ。
その辺りの事情についてはまた後日報告したい