正月は時間があるのでテレビを見るのだが、テレビ局の人も正月休みなのか、つまらない番組が多い。そんな中、NHK-BSでやっていた、「武士道 Samurai spirit」というシリーズが面白かった。
外国向けの番組で、日本在住の空手家のペタスさんが様々な日本の武道を紹介するシリーズで、正月に過去の放送をすべて放送していた。

第一回は弓道。

和風アーチェリーと思っていたが、どうやら全く違うもののようだ。
作法や心構え、そして技術について細かく説明するのは大変なので、エッセンスを要約すると、

「的に当てることが目的ではない」

らしい。では何が目的かというと、

「無心になる」

ことだということだ。無心になれば、暗闇でも的を射抜くのだという。だから、昇段試験は、ダーツのような得点で決めるのではなく、品格を見るのだという。

深すぎる話だ。スポーツでは平常心の重要性が言われることが多いが、無心と言うのは一種独特な世界で、自我を消失させ、己の体に宿った神が仕事をするという状態である。普通のスポーツは冷静な頭で考えながらすすめることが多いので無心になってしまっては仕事はできない。無心になったときに体が勝手に動いて、というのは一瞬で勝負がつく相撲くらいなものだろう。その相撲も、弓道も、神事として行われることが興味深い。

日本では、武術も、格闘術も、術を超えて、「道」という領域で研鑽する。それが日本人の強さ、美しさに他ならないのだが、なぜか、タイマッサージも似たようなところがある。
中国整体や西洋のマッサージではそういう精神性よりも知識の集積と応用の方に重点がおかれているように思えるのだが、タイは仏教国のためなのか、タイマッサージを道として極めるような文化がある。もちろん、都会の商業的なサロンで働いている大多数の人たちはそんな感じはないのだが、寺で無償で貧しい人を治療してきた歴史の中で、そこに高い精神性を意識したというのは自然な流れだったのかもしれない。

そう、タイマッサージも、無心で行うことが奥義とされる。お金を稼ぐことや自分の力を誇示するだけでなく、治療することすら目的としてはいけないという教えがある。もちろん、治療のためにやっているので、治療してはいけないという意味ではなく、「自分の力で治してやるんだ」という気持ちで臨んではいけないという意味である。無心になって相手と向き合い、相手の体を感じ、心を感じ、自分の心と体の感覚に集中する。そうすれば、何をすべきか考えるまでもなく、体がすべきことをするように誘導されていくとも言う。

武道は心の修行とか、人間性を高めるために行うというが、結局は殺人の技術である。無心を極めることも、品格を高めることも、それがより優れているほうが生き残るから、である。同時に、相手は屍となる。気分のいいものではないだろう。動揺するだろう、手が震えるだろう、眠れなくなるだろう。だから、無心がいいというのはうがった見方か。

タイマッサージ道は違う。人を生かすための道である。同じ道でも、長い時間をかけて極めるならば、こっちの方が役に立つし、使うことでこちらも幸せになれる。武道の道場のように、タイマッサージの道場がたくさんできるような時代になってほしいものである。いや、そうするのが私の仕事なのかもしれない、というのが新年の所感である