NHKスペシャル「世界初撮影! 深海の超巨大イカ」を見た。
老若男女楽しめる素晴らしい番組だったが、見終わって最も印象に残ったのはダイオウイカと遭遇し、そして、ダイオウイカが去って行った後の窪寺博士の何ともいえない表情だった。喜びで満面の笑みかと思えばそうではなく、何だか哀しそうな、気が抜けたようなポカンとした顔だった。
40年間追い求めてきたダイオウイカを自分の目で直接見るという目標が完全な形で達成された後の顔だ。そうそう見られるものではなく、実はこの番組の最大の見所だったかもしれない。
目標が達成され、同時に目標が失われると人間は放心状態に陥るのかもしれない。思考が停止し、体の力が抜ける。求めてきた夢は叶ったはずなのだが、叶ってみればそこには何もなく、ただただ、終わった、終わってしまったというさびしさ、生涯をかけた取り組みが終わったということは一生が終わったということ、死を意味する。自分の一生の終わり、悲しくないわけはない。
この心境は、登山をする人にはよくわかるだろう。ジグソーパズルでもいい。山頂を目指して苦労に苦労を重ねる。装備を用意し、周到な計画を立て、体力を整え山頂を目指す。苦しいが心は楽しい。わくわくする。山頂はまだか、あと何時間かかるのか、進んでも進んでも手が届かないこの感じは何なんだ、俺はなぜこんな苦労をしているのか。様々な雑念、苦しみが心をよぎり、もう辞めようか、いやここが踏ん張りどころだ、しかし、山頂はあとどのくらいあるのか、と考えながら一歩一歩を踏みしめていると、山頂は突然現れる。気がつくと山頂に立っている。やった! ついに攻略した!と喜びが湧き上がる、はずだ。しかし、実際はそうではない。確かにいい景色だし、登頂に成功した。で、なんなんだ。そんな気持ちだ。確かに嬉しいし撮りたかった写真も撮れる。しかし、目標が達成され、同時に消滅してしまった空しさ、哀しさ、終わった、そういうものが心を占めているように思う。

私は生涯において、この気持ちを2回味わっている。一回目は大学受験で合格した後。多くの人が五月病になる気持ちがわかった。
二回目は去年だ。働くという営みを始めて24年。会社に勤め、会社を辞め、事業を始め、失敗し、そして去年とうとう、満足がいくものを生み出し、思っていたことが形になった。数ヶ月間放心状態になっていたような気がする。

今年に入って、新たな目標設定をした。その第一歩がピシットタイマッサージサロンのオープンだ。これまでにない素晴らしいサロンを創造する気持ちで取り組んでいる。そんな今が楽しい、夢というのは叶うことではなく、叶えるために突き進んでいるときが一番楽しい。その意味では、夢を持った時点で人は幸せになれる。夢が叶うかどうかはどちらでもいい。多くの人は夢がかなった人が幸せだと考えるが、夢を持った人が幸せだと言うのが真実だ。そして、それは誰にでもできることであり、つまり、誰でも必ず幸せになれる。

人生は壮大なゲームである。ゲームをするのは達成の画面を見たいからではない。一応それを見るという目標を持って取り組んでいるが、それが見たいのなら誰か達成した人に見せてもらえばいい。そうではなく、自分でやるから面白い。やっているときが一番面白い。達成してしまえば、単純に終わってしまう。終わってしまえばそこに幸せがあるわけでもない。それは初めからわかっていたことだが、終わったらまた次のゲームを始めるしかない。パチンコやギャンブルは結果を伴うゲームだが、結果を伴わないゲームがこれほどまでに市場規模のあるものだと気がついたことは革命である。働くということがゲームではなくなった現代だからこそ成立した事業であると言える。

しかし、ゲームに人生をささげるのはやはり空しい。本業で人類のために、あるいは、家族のために、人生のゲームの目標設定をするのが本筋だろう